水の向こう側(夜昼+鯉伴)

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きらきらと光る水面に落ちる太陽
優しく吹いた風が水面を揺らし
今、一時月が姿を見せる―…



□水の向こう側□



かれこれ一時間になるか。
縁側に腰掛けた鯉伴は視線を庭へと移して欠伸を漏らした。そして、青々と繁る垂れ桜の側に造られた池を覗き込むリクオの背に声をかける。

「リクオ、そろそろ中に入れ」

「もうちょっと!」

しかし、リクオは鯉伴の言葉を聞かずふるふると頭を横に振って、熱心に池を覗き込み続ける。
その様子に、鯉伴はやれやれと重い腰を上げた。

「そんなに覗き込んでもうちの池にゃ河童しかいねぇだろう」

のんびりとした動作で歩を進めた鯉伴は、しゃがみこむリクオの隣で足を止めると同じようにリクオの横にしゃがんだ。

「何が楽しいんだかお父さんにはさっぱり解らんぞ」

池には鯉伴の言葉通り、今は留守にしているが、河童しか居ない。他には風で飛んできた葉っぱやら花弁が浮いている程度か。

「リクオ」

「…る」

「ん?」

「いる!河童だけじゃないもん!」

だが、リクオには他に何が見えているのか、河童しか居ないと言った鯉伴にリクオは怒った様に声を上げた。

「…っと、じゃぁ何が居るんだ?」

その勢いに鯉伴は池を見て、次にリクオを見て困った様に聞く。
すると今度は何故か、みるみるうちにリクオの大きな瞳が潤み始めた。

「ど、どうしたリクオ?泣くな」

「うー、だって、居ないって…お父さん…」

ぽろりと溢れた滴を慌てて拭い、鯉伴は膝を着いて、泣き出したリクオを腕の中に抱き締めた。
小さなリクオの背をポンポンと叩き、鯉伴は宥めるように言う。

「お父さんには見えねぇが、池には他に何か居るんだな。分かった、分かった」

「…んっ。だって、昨日…助けてくれたもん。池に落ちそうになった僕を助けてくれたもん」

「落ちそうになった?」

「うん…」

ふわりと吹いた風が。体を包んだ温かなぬくもりが。池に落ちそうになった体を引き戻した。真ん丸に開いた茶色の瞳が、きらきらと光を反射させる池を写し。
そこに、水の輝きとは違う輝きを見つけた。銀色に靡く…。

「助けてくれたんだ。僕と同じ服を着た人が。でも…」

それきり。一瞬で居なくなっちゃった。

「それで池を覗いてたのか」

「…ん」

こくりと頷いたリクオを抱き締めつつ、池に視線をやった鯉伴は難しい顔で考える。

リクオのいう人物に心当たりがないのだ。

銀色の髪といえば親父だが、姿を隠す必要もない。むしろリクオに何かあれば昨日の時点で呼び出されているはず。

親父はリクオの事を父親である俺より可愛がっている節がある。
…と、すると本当に何者だ?

押し黙った鯉伴にリクオは何処か寂しそうに瞳を揺らし、ポツリと呟く。

「また…会えるかな?」

「会いたいのか?」

「うん!」

「そうか。…リクオが会いたいと思ってりゃ会えるさ、きっと」

リクオを助けてくれたのなら害のある者ではないだろう。

鯉伴はそう結論付けるとリクオの頭をくしゃりと優しく撫でた。

名残惜しそうに池を振り返るリクオの背を押し、家の中へ上がるよう促す。

「さ、もうすぐ陽がくれちまうからな」

「…うん」

履いていた草履を脱ぎ、縁側から屋敷の中へリクオが上がったのを見届け、鯉伴もまた屋敷の中へと姿を消す。

…誰も居なくなった庭で。

茜色に染まる空を写した池の水面がゆるりと吹いた風に揺れた。

水面をたゆたう花弁が流れ、きらりと銀糸が光る。

《…会えるさ》

水の向こう側で。
切れ長の金の瞳が愛しげに細められる。

そこは現ではないどこか。
薄紅色に染まる垂れ桜の枝に腰掛けて溢される呟き。

《お前がそう望んでいてくれれば…》

とくり、とくりと、穏やかに脈打つ己の心音に右手を重ね、そっと伏せられる瞼。

《俺はお前の為に存在する》

伏せた瞼の裏に浮かび上がる未だあどけない笑顔に、繋がる心から伝わる温もりに知らず表情が綻ぶ。

《あんまりあぶねぇことはするなよ…昼》

そよりと再び吹いた緩い風に水面は震え、銀色の輝きは溶ける様に消える。

後には夕闇を連れた茜色の空だけが残されていた。



end




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